合理と理合
剣道では、
理合と言う言葉をよく耳にします。
では、その理合とは一体何でしょうか?
「理」という一文字だけだと、
「ことわり」と読みます。
(他にも読み方はありますが、
ここでは触れません。)
「ことわり」というのは、
自然の法則や道理のことで、
無理、無駄のないことを
「理にかなった」と表現します。
そして、その「理」に「合う」ことを
「合理」と言います。
「合理的な身体の使い方」、
「合理的な技」というのは、
言葉を変えれば、
「自然の法則に従った身体の使い方(技)」
「無理や無駄のない身体の使い方(技)」
ということになります。
しかし、それだけでは「合理」であって、
「理合」ではありません。
これは私自身の考えになりますが、
先に「理」を考えて、
自然の法則に従った動きや、
無理や無駄のない動きをするだけでは、
「合理的な動き」でしかないです。
「理合」というのは、
そんなに簡単なものではありません。
一本をとる為に、
もっと強く打てるようになろうとし、
もっと速く打てるようになろうとし、
もっと確実に打てるようになろうとし、
もっと、もっと…と修錬を重ね、
幾度となく失敗と成功を繰り返し、
心身を錬磨し、旺盛なる気力を養い、
そうしていくうちに無理や無駄が減り、
また、「こう動けばこうなる」とか、
「こうなればここを打てる」とか、
ある意味では相手を打つための
手順や法則みたいな物が、
自然と身に付いてきます。
そして、百戦錬磨の末にやっと会得した
無理や無駄のない動きや技、
また修得した手順や法則のような
一本をとるための動きや技が、
なぜ無理や無駄がないのか、
なぜそうなるのかということを考え、
それが「合理的」であることを知り、
またより一層の修錬を積む。
そんな事を繰り返していくうちに、
「剣の理」をより深く知り、
「剣道の理合」がわかってくるものだ
と私は思っています。
合理的な稽古方法を考え、
合理的な動きや打ち方、
合理的な技を出すタイミング等を
考えるのは、
決して悪いことではありません。
しかし、合理的なだけでは、
まだまだ薄っぺらいです。
「合理的」であることを
自身の経験から知っているからこそ、
自信を持ってそれを実践できる。
そして、それを繰り返し修錬することで、
考えなくても自然とその「合理的」な
動きや技が出てくるようでないと、
「理合のある剣道」とは言えない
と私は思います。
色々と工夫してみて下さい。
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